今回は注目の物件です、最初に話してしまいますが
「今週末過ぎ空室の保証は全くできません」
それほどコストパフォーマンスが高いお部屋なので”レアケースなんだ”の理解の上ご覧ください。
市ヶ谷から靖国通りを後にして東郷公園方向へ
こちらが東郷公園(ここの裏は九段小学校です)
物件はここから皇居方面へちょっと歩いたところなんですが、
なかなかしみじみとした通りで
ほんとに普通のお豆腐屋さんがあって
床屋さんがあって
(お客さんが外国籍の方だったりするのが違いと言えば違いで)
洋食屋さんがあり
タクシーの運転手さんもお食事でしょうか、
何かいかにも高級住宅街である的な高尚さっていうか嫌味なところは微塵も無いのです。
お隣のお弁当屋さんが
「TV局ロケ弁コンテストグランプリ」なんてコピーなのが違いと言えば違いで、
程無く物件のある区画です
物件隣はcafeなんですよー
左が今回のマンション、右がcafeで
ほら
なんちゅう環境の良さでしょうか
さて主役の物件ですが
こちらも実に上品な意匠で”いい感じ”ですよ
お部屋はこちら
物件概要
JR・有楽町線・南北線・都営新宿線・市ヶ谷9分、半蔵門線半蔵門9分、千代田区三番町、築1972.6、RC造5階建ての3階、34.71u2DK、オートロック、エアコン、エレベーター、バス・トイレ別、三面採光フレッツ光、耐震補強工事済、
賃料12万5千円(管理費5000円)
所謂1LDKにしようと思うと微妙にu数が足りない(LDKの基準は一般的に10帖以上なので)、しかしコンパクトな2DKは可能なタイプ(レトロマンション限定でこのタイプが存在します、築浅系の昨今の設計は無理やり寝室を狭くして意地でも1LDKにしたりするのが特徴)。
つまりコンパクトでも2DKとする事で若い夫婦の方がリースナブルに暮せるお部屋として当時設計されたもので、最近はあまり見かけない間取なんですが実に効率的で使いやすい間取なのです。
しかも今回のお部屋は三面採光ですから開放的な内容も相まって40uランクの1Lを相手にしても十分勝負できるお部屋といえます。
はっきり言って、この賃料で他に探せといってもとても無理な内容ですよ、
これは素晴らしい、
近隣環境を”ちょっと大きめ”にぐるーっと回ってみましょう、
隣の区画には大妻女子大
これが又流石の建築
御厩谷坂(おんまやだにざか)を下って一回り
(名前の由来は将軍家の厩舎があったからです)
こちらの裏には
先日の千代田区レポートの本編に登場する「ローマ法王庁」で、
こちらの区画は九段小学校と
こちらが又見事な建築なのです
画像右に見えるお迎えは「NK麹町コータース(SRC築S47年)」
などと言うここは間違い無く千代田区なんですが、
ここにも普通の八百屋さん
で、ここから東郷坂を登るとスタートの東郷公園なのです。
これはイイですよマジに。
2008年08月29日
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今回はどの写真もよく存じ上げてる場所で、
このビルにこんなお部屋があったとは驚きました!
このあたりは事務所を持つのもいいですが
むしろ暮らすのにいい場所なんだろうなあと
通勤しながらよく思ってました(笑)
食材のお店が色々あったり、外食もよく、
夜は環八や環七近くよりもはるかに静かですしね。。
>むしろ暮らすのにいい場所なんだろうなあと
おっしゃるとおりなんですっ
分譲マンション的な希望地域としては(分譲の供給量も多いので)東京でも最強の地域のひとつです。
>夜は環八や環七近くよりもはるかに静かですしね。。
この傾向は赤坂も同様で、
賃貸物件が多数ある地域ではありませんが(赤坂なんかの方が多いです)、暮すにもとてもいい場所なんですよ〜
千代田区に2度住みましたが・・・
もしまた住む機会があれば麹町1丁目か内濠通り沿いの一番町と三番町のみですね他は前述の人種が大増殖して建物によっては事務所使用が多く平穏な暮らしはもはや無理!!!
住んでた九段(38u 三方角全ての部屋に窓有 和室6+4.5畳 K4畳 バストイレ別で壁と床がタイル張り但しバランス釜 EV有 賃料は10.2万⇒9.2万にしました)のオーナーの話によると昭和42年頃は内濠通り沿いは英国大使館辺りまでお屋敷がずら〜っと並んでいて壮観だったそうです今や3件(歴史が好きで存じてはおりましたが地元の生の声はやはり違うものです、業種の多様化&人口の激増化が原因で元祖山の手の最高峰の番町にせよ、他の元祖山の手もオフィス街、繁華街に・・・あぁ嘆かわしい!!!)
サラリーマンやOLさんが我が物顔で闊歩しないで誰が街を歩くんですか?
日本のいいところは特権階級が存在しない(共同幻想的にはそれを担保するのが天皇制です)ところなんですから、
街はサラリーマンやOLさんフリーランスの独立事業主とアルバイトやフリーターによって生きています。
それが日本ですよ、
そしてこの東京の経済を造っているのは「サラリーマンやOLさんフリーランスの独立事業主とアルバイトやフリーター」ですよ?
封建社会と搾取経済でなっているのではないのであって、確かに都市計画(用途指定)による住宅街の保護は必要ですが、千代田区から事業者を排除する事は都市計画としてありえないからです。
杉並区や練馬区等の低層指定地域とは本来違っているのであって(千代田区で全住居を3階建て以下として事実上非木造建築を禁止する事は東京という都市の構造からして平等性に欠けるし、同時に地権者は固定資産税を維持する事が不可能です→評価額がそもそも違うんですから)、
高層化指定があれば事業者含めてこれは商業性の用途も連なるものですしそれが妥当です(高層住居だけの街は逆に新興住宅街と同じ問題も考えなくてはいけません”URの街”のように)、
同時に不動産の流通として「結果として空室率が上昇」してしまえば”ゴーストタウン化”も容易に起きてしまう(ここが分譲自主管理の弱点です)、
街は生きていますから。
管理規約の事務所可否はまた別問題ですし、
私はそれが都市だと思います。
そこで働き暮している人達と、休日だけ興味本意と誇張されたコマシャーリズムに煽られて集まって騒ぐって世界とは別個のものですよ、
タワー型の開発の最も大きい問題は「ビジネスベースから見てもマクロ的に不動産流通全体からみてナンセンスなケースが多いため(短期の売り抜け的利益性があからさまなところが姿形に表れてしまっている)」で、
これと時代の中の必然として変化していく能動性とは別個のものです。
確かにそのままでいい筈の街がおかしな方向に流れる時もありますが、こういう時には必ず背後に”無理な計画”があったり(経済学的に言えば「需要と供給が一致する世界」そのものが美しいので、ビジネスベースそのものが長期的に怪しいと構造として美しさに欠けるものです)等、無茶な事情や(政治・銀行・ファンド・ゼネコン関係などの)思惑が見えちゃったりするものです。
それこそ「サラリーマンやOLさんの仕事や暮らし(実体経済)」から離れたところで起きるものですよ。
ですから私は「サラリーマンやOLさんが大手を振って歩いてこその都市」だと考えます。
じゃなければ都心部(オリジナルの東京部分)の住宅街は皆オフィス街化繁華街化してるでしょうし
昭和42年当時の麹町〜赤坂〜麻布(現 六本木地区)の俯瞰写真?斜めからの航空写真(カラー)を見たことがありますが上品で落ち着きある均整のとれた都会的な雰囲気でうっとりしましたけれどね
大手町や丸の内といった純粋な業務地ならばいざしらず元来住宅街であった所で働くサラリーマン&OLは地域住民へ対してのマナーが乏しすぎるということは今まで多々痛感してます、夜 駅からの帰り道で地元住民が少ないことをいいことに歩道(狭いとこを含め)を横並びで歩行する連中(こちらが両手に荷物をもっているにもかかわらず文句を言わない限りどけない、大勢で態度が大きくなっている連中)
昔 純粋な住宅街であった某エリアで勤めたことがありますが、同僚や他の勤め人はまるで地域へのマナーがなってない!
(所詮我々勤め人はヨソ者で地元住民の方々に対し礼節を以った態度で臨まなければいけないということがですね、住んでいる方々のほうが当然の如く立場が上であって勤め人や事業主(在住の場合は除く)は所詮ヨソ者ですから相応の態度というものがあります)
天地逆さの誤解しています、
私は某地域の江戸地図(個人所有の写しなので公開はできません)を持っていますが、その地域には大名屋敷が並びお抱えの某医の夫人は大手スーパーだったかの経営者の祖となってますし、その地域には現在テオレマさん推薦の豪奢なマンションが建っているだけでなく事務所も店舗もあります。
この国は良くも悪くも(その是非はともかく)明治維新を契機に文明化へ舵を切り封建主義は崩壊した。
江戸幕府徳川家の要塞都市である江戸が、東京に変貌する世界の中で大名屋敷を存続させるべきだと思いますか?一体どういう制度で、
貴族階級ですか?
家督相続をどうやって維持温存するんです?
WWUの敗戦によりGHQは当時日本の軍産複合体を軍国主義の現況として解体を進め戦後日本は相続税という名の「事実上完全な家督相続の解体」に踏み切った。
ここの議論も、良くも悪くも(その是非はともかく)『家制度からの開放』という形で(言い換えるなら”苗字の単純記号(無効)化”→共同幻想的縛りの開放)「アプレゲール世代」「団塊の世代」を経て60年安保を華麗にスルーし、
良くも悪くも(その是非はともかく)所得倍増論と列島改造論の先にバブルを経てデフレで弾け、我が国は長い道のりでぐるっと廻って元よりあるべきだった民主主義に到達しつつある。
言い換えるなら明治維新の大騒ぎがようやくここで終焉するって事です。
元来この国ほど平等とリベラルな精神の国は世界でも珍しく、
『民あってのお国(各藩→地方自治)』です、
江戸文化で美しい事は鬼の平蔵事”長谷川平蔵”が造った軽犯罪者厚生施設である佃の「人足寄場」に現れています。
現代の刑法犯への扱いよりよっぽど当時の方がリベラルだったと言ってもいいし、これは間違い無く左翼的発想でもなく、サルトル辺りが「ど・勘違い」した実存主義的ヒューマニズムでも無い
「そりゃあんた人の情ってもんです、驚くようなもんじゃありやせんぜ」
粋であったり情であったり、自然にそこにあって「あったりめーよ」だったのが江戸です。
この街は庶民の街ですよ、
間違っても特権階級の街じゃ無いし徳川家旗本は貴族じゃ無い(高級官僚と特殊法人ってところでしょう)
江戸城開城のおり武装解除を拒否したサムライが不忍池にて全滅しましたが彼らを手弁当で支えたのは下町の庶民ですよ、
国会議員宿舎ひとつとっても国会議員の先生から「これは贅沢すぎる」と批判が起きるこの国で、
民主主義なんですよ、主権在民
この国の主役であり最上位の権威こそ「サラリーマンやOLです」
その上に人が立つ事をこの国は憲法により禁じている。
ここに象徴天皇の存在がセットになっている、
かの人物が旧江戸城から「以下全員コンプリート平等である」と(仮に人の上に立ちたいというのなら”かの人物”を超えなくちゃいけない)、
アルバイトより社長が偉い?
馬鹿言っちゃいけませんよ(笑
それこそ陛下が許しませんよ。
それは職場だけの話です(単なる仕事上の記号に過ぎない)、
タイムカード押したらアルバイトも社長も糞もありません。
「こんにちは」
「今日は天気がいいですね」
<つづく>
スマッチのブログに書きましたが、昨今都心部でワンルームマンションの建設を禁じる条例が可決されています(このケースは地元住民の”短期解約系在住者”に対する反発です)。意図しているのはサラリーマンやOLさんやアルバイトや働く人達を指したものじゃありません。
短期滞在・早期解約型の『東京にくる覚悟の無い人達』喩えるなら”遊び半分の旅行者”です、
そして又彼らを煽っているのは、戦前からの流れを未だ残す『リテラシーに欠ける旧マスメディアであり品性の疑わしい広告(築浅信仰や分譲信仰だってここ発)』です、遊び半分に貶められている彼らだって本心じゃないでしょう、それこそ如何わしい旧権威がその論調を造った張本人です。
※なので某ネットの社会ではスケープゴートとして広告の本丸○通に対する批判が集中したりするんですよ(満州鉄道がらみの尾っぽの先ですからね)。
>歩道(狭いとこを含め)を横並びで歩行する連中(こちらが両手に荷物をもっているにもかかわらず文句を言わない限りどけない、大勢で態度が大きくなっている連中)
歩道を拡幅する予算の税源は彼らの従事する会社の法人税であり彼らの給与から天引きされる所得税です、建築法で『公道拡幅』が定められ地方自治体が6m公道として計画指定された道には歩道が設置されますが(左右1.5m順歩道)、規格歩道(幅員2.5m)を設置するには更に拡幅が必要です。
つまり公道に面している旧戸建の建替えにより拡幅は行われるワケで、
「歩道の拡幅を求めるのと旧街並みの建替えを求めるのは同義」です、
そして狭い歩道は両手に荷物を抱えても堂々道の真中を歩くためのものじゃない、
天下の公道を”カタギのみなさん”が楽しげに歩いてどこか傲慢ですか?
公道ってものは租税により管理維持されいてる道ですよ
「誰が歩いていると思っているんだ」のように潜在意識で彼らを見下しているから相対的に彼らの姿が傲慢に見えいているだけです。
サラリーマンやOLさんを、場末のチンピラと勘違いしちゃいけませんよ。
本職精神分析やっている立場から言うなら「その誤解は蜃気楼みたいなものです」、
面白くない事を不快に思う事は誰だって同じですし自然です。
しかしそれは自分が不快だってだけで、彼らは誰かを不快にしようと意識してそうであるのじゃないのだから、
心理学的にも”群れによるハイ”って現象が人の気を大きくする事もあるでしょうが、それだって個別の意識が意図したものじゃない。
彼らの態度が傲慢であると判断するのは『認識違い』ですよ。
「相対的に不快にするつもりの無い対象者が、偶然ここに遭遇してますよ」
コミュニケーションによって容易に解決する話です。
「ちょ〜っと失礼しますね」
この言葉を使うのは”マナー”のひとつじゃないんですか?
結果として場違い見知らぬ人に言葉をかけてしまう事を同時に伝えています
「失礼(目上の人や”未知の人”に自分の言動の無作法さをあらかじめわびて言う語)しますね」と、
自発的な能動性で解決する自己完結性のある現象を「関係他者に問題があるからだ」と認識するのは、
認識違いに他なりません。
現代が昔と大いに異なると感じることは喧嘩にせよ今回の件にせよ皆が同化してしまっていることです、大勢でいるせいで横柄な態度になっている者があまりにも多く、それらををいさめる者がいなくなった(例えば仮に酔っているにせよ仲間の誰かしらが『おい!向こうから人が来るからさっさと道をどけろ!ここは我々の私道なんかじゃなく公道なんだから横並びだと邪魔だろ!』てな具合に・・・
これは昨今頻発しているグループによる暴力事件、動物虐待死事件にも当てはまります)
これらの事柄についてのコメントはサイトの路線を逸脱しているのでこちらからは誠に勝手ながら今回でやめます。
私はプロフィールに明解にメンタル心理学系のコンサルタントであると明記していますし、特に街を巡る人の意識や再開発の問題等心理的側面からも考えてきました。
補完的ブログになるスマッチの『住まいの心理学』は名前が示すとおり心理学がテーマのひとつになってます、
テオレマさんはこの千代田区エントリーにおけるk4さんのコメント(この街で働いています)に対して、
「サラリーマン&OLがワンサカと我が物顔で闊歩してるのが気にならなければ精神衛生上問題はないでしょう」と、k4さんのコメントだけでなくk4さん自身をも侮蔑するコメントをしている事にお気づきじゃないのですか?
エントリーに対する個別の意見はあってしかるべきでしょうし、私の書いたエントリーそのものへの批判的投稿も論議が深まるワケですから大歓迎です。
個人の考えとしてどんな考えをもってもそれは自由ですが、
少なくとも公開される形でひとつの社会性を持つブログサイト内のコメント欄は、個人的なメールと違い掲示板機能を有するものですから一定の公共性を持つものです。
(サイトを閲覧している他の方に対して挙手して発言しているのと同義であり、管理人である私個人と意見交換する”だけ”の場所にはなりません)、
結果として他コメントに対する中傷ともとれる書き込みに対し、管理人は少なくともその内容を整理しなければならない事は責務ですし、
それはサイトの路線以前に『公開web運営者の掟』です。
特にブログの運営にあたっては、コメント欄を開放している場合安易に投稿を削除する事はサイトの信用性を貶める事になりますから、管理人としてコメントにはコメントで対処しなくてはなりません。
各論になりますが、
論旨が破綻しているんです、
>スペースが乏しい状況で人がこちらへ向かって歩いて来れば必然的に除けてあげるのが当然の当たり前ですし、ましてや先方が荷物を持っている人ならば云うまでもありません、こんなことは幼稚園児でも出来ることです(私が振り返って見れば)あえてこちらが向こうにあれこれ云う必要は皆無です、雨の日の通りすがりにお互い無言で傘を傾け道を譲り合うのと同次元です
この個別事例をもって「千代田区はサラリーマンやOLが我が物顔で闊歩して精神衛生上よろしくない」になりません。
心理学的に上記文章をデ・コードすれば
「私にとってサラリーマンやOLが我が物顔で闊歩している街は精神衛生上よろしくない」
何故なら昨今「純粋な業務地ならばいざしらず元来住宅街であった所で働くサラリーマン&OLは地域住民へ対してのマナーが乏しすぎるということは今まで多々痛感しているからです」
↓
「そういえば駅からの帰り道で地元住民が少ないことをいいことに歩道(狭いとこを含め)を横並びで歩行する連中(こちらが両手に荷物をもっているにもかかわらず文句を言わない限りどけない、大勢で態度が大きくなっている連中)私は我慢ならない」
になります、
この逸話が「千代田区はサラリーマンやOLが我が物顔で闊歩して精神衛生上よろしくない」に繋がらないからです。
実際テオレマさん自身上記文章で注釈つけていますね「(それが)気にならなければ問題はないでしょう」、
つまりテオレマさんの主観と他者の認知が違うかもしれない部分はテオレマさん自身「想定されている」事になります。
しかしその”違うかもしれない可能性”への言及は、どこから読み直しても「不愉快な現象に鈍感であれば」のような解釈になるだけでなく、
「前述の人種が大増殖して建物によっては事務所使用が多く平穏な暮らしはもはや無理!!!」等と、蔑視表現になっている。
さて「サラリーマンやOL」は現象として特異な存在かと言えばそれは違います、
どちらかと言えば都民の圧倒的多数は「サラリーマンやOL」です、
そしてテオレマさん自身「同僚や他の勤め人はまるで地域へのマナーがなってない!」とあるように、
そうなるとその蔑視対象は非常に広範なものだという事になります。
<つづく>
論旨の前提となる個人的な前提となる部分
「私にとってサラリーマンやOLが我が物顔で闊歩している街は精神衛生上よろしくない」
これは既に社会全体に対する上位の目線からの蔑視や批判であって、ここは以下の文節で論証されますが、
↓
>所詮我々勤め人はヨソ者で地元住民の方々に対し礼節を以った態度で臨まなければいけないということがですね、住んでいる方々のほうが当然の如く立場が上であって勤め人や事業主(在住の場合は除く)は所詮ヨソ者ですから相応の態度というものがあります。
”我々勤め人はヨソ者で”という記述
そして「千代田区に2度住みましたが・・・」という記述、
「私は自分がヨソ者である事を理解し住民の方々に対し礼節を以った態度で臨んでいるので、”立場が上の地元住民の方々”同様の立場から所詮ヨソ者に対する批判をしてもいるのです」となります。
文体は「平穏な暮らしはもはや無理!!!」「・・・あぁ嘆かわしい!!!」とテオレマさんが主格(地元住民の方々同様の立場)になっているからです、
テオレマさん自身「自分も所詮ヨソ者で、礼節を以った態度で臨むべきだ」と記載されているのに、
「テオレマさん曰く”立場が上の地元住民の方々”と同様の立場から」サラリーマンやOLを(上から)批判する事が”そういう趣旨の”礼節であるとは思えませんし、
■その”地元住民の方々”には「サラリーマンやOL」は存在しないのですか?
そして地元住民からの”自分が暮す街におけるマナーの問題”は地方自治という民主政治の場で「20u以下のワンルームマンション建築禁止条例」として問題になっていますが、想定されているのは『短期解約型で地元意識に欠ける旅行者的ともいえる居住者』に対するもので、”地元法人に対する勤労者”を対象としたものではありません(むしろ問題なのは”ゴミだし”等のルール)。
テオレマさんの論旨とは逆に「在住の場合」が地元住民の方々からの批判の対象になっています、
http://kagewari.blog.smatch.jp/blog/2008/08/post-7000.html
(文京区、中央区、渋谷区、目黒区、江東区、豊島区、新宿区など10区で同様の条例が制定・施行、板橋区は検討中)
この論理矛盾は「権威性の高い地域の住民」という概念に、「何らかの象徴化された権威」が(漠とした”超権威”のように)投影され、抽象概念として成立しない限り説明できません。
なので私は「それは誤解であり、認識違いですよ」と説明しているのです。
又、
>現代が昔と大いに異なると感じることは喧嘩にせよ今回の件にせよ皆が同化してしまっていることです、大勢でいるせいで横柄な態度になっている者があまりにも多く、それらををいさめる者がいなくなった(例えば仮に酔っているにせよ仲間の誰かしらが『おい!向こうから人が来るからさっさと道をどけろ!ここは我々の私道なんかじゃなく公道なんだから横並びだと邪魔だろ!』てな具合に・・・
>これは昨今頻発しているグループによる暴力事件、動物虐待死事件にも当てはまります)
この点の認識は完全に間違ってますよ
私の精神分析のブログを読んで頂ければ理解いただけると思いますが、昨今の共同幻想の崩壊過程における社会不安的な心理的動向というのは、私は心理学的背景を含めて延々語ってきた部分です。
http://kagewari.seesaa.net/
(私は最初のレスでこの点にことわりを入れています「それは完全に私の本職である心理学・精神分析のジャンルの話です。」と)
そもそも「現代が昔と大いに異なると感じる」で語られている”昔”とは何時の時代の事でしょうか。
私は43歳ですが、経験からも「現代は皆が同化してしまっている」等と感じたことはありませんし、よっぽど昭和40年代50年代当時の方が日本の共同幻想も強固で社会性という点で「組織(集団)優先」の意識は高かった筈です。
個性化の時代、民主主義の時代として”現代”は『都市部浮動票』に語られるとおり、1980年代〜2000年前後までの『フリーターの時代』に語られるとおり、21世紀東京における『晩婚化・非婚化・少子化』に見られるとおり、IT革命以降の『ベンチャー企業』に現れているとおり「個人化・個別化・個性化」の時代に変遷しています。
その先端都市が東京です、
「現代が昔と大いに異なると感じる・・・それらををいさめる者がいなくなった」
↓
「”昔”のように、横柄な態度になっている者には○○しろ!のようにそれをいさめるべきである」
これは保守的政治家や評論家の道徳教育復古調の論旨そのものです。
テオレマさんもご存じのとおり、こういう主義思想の人物こそ、政治的に「バトルロワイヤルはけしからんから上映禁止だ」なる主張を行うタイプの発想の持ち主です(それこそ”昔”で言えば「外国のロックはウルサイだけで不良の音楽だ」と主張するタイプ→ここでも西新宿レポートに対するテオレマさんのコメントからそういう趣旨の主義主張をテオレマさんが支持しているとは思えない)。
HNに”Teorema”の名を冠するテオレマさんの認識とはとても思えないのです。
<つづく>
心理学的に上記現象を説明するなら、
文明化の成熟仮定で共同幻想が自戒するのは自明であって、台頭する個人社会に相対する形で協調型人格の世界には社会不安にも似たモラルハザードが進行します(これは秩序として慣習法的な”常識論”を徹底するべきと考えるのはナンセンスで→そもそもの構造的社会不安の原因は共同幻想の崩壊という形で表面化する保守的集合性の崩壊なので、その常識論を担保する正当性を構造的に担保できないからで→現代社会の場合その常識論とは民主主義的合意性によって担保される→コミュニケーションによる合理性の成立→法的秩序に関しては名文法としてこれを明記し、旧来の慣習法でカヴァーされたその”運用面”についていは変化する社会環境の中でその都度民主主義的にコミュニケーションによって合意形成を図るべきものになる)、
この現象は、既に崩壊過程にある共同幻想を直視し、各個に自立する方向で”個性化”として自由に各人が「在り得べき姿を常に模索し続ける」という考察から(民主主義の投票行動のように)担保されるべきで、封建主義的に保守的権威者がそれを強権的に従わせる形で行うものではない(既に倫理や哲学は各個人多様化しているため”上位”の概念は近代と違い現代社会には存在しない)。
民主主義にあるように、確かに効率は悪くてもその合意はミクロ経済学における最適化と同様”市場”が最適化を行うように”社会”が最適化を行う事になります。公正な市場の概念を社会において担保するのは「透明性と公開性」であり、
「権威主義的統制経済」によるものではありません。
(権威なるものは、民主主義社会においてはその個別言論に対する支持や敬意を現すもので、”既得権的権威性”は構造的に存在しないのです)
つまり、自身の意思を明解にしそれを表現する事(自己責任の成立)が社会における「透明性と公開性」になります、
(インフォームドコンセント)
「ちょ〜っと失礼しますね」
この言葉を使うのは現代社会における”マナー”のひとつ(多様性なので)じゃないんですか?
それに対して
>あえてこちらが向こうにあれこれ云う必要は皆無です
これは事現代社会においては傲慢ですよ(礼節を重んじると主張するテオレマさんの言葉とは思えない)。
何故ならその一言で対象者が「あっ(これは気がつかなくて)、スイマセン」と答えれば、対象者は配慮の機会を獲得するだけでなく、その場には「構造的悪人のような存在は無かった事になります」。
しかし、その一言がなければ「文句を言わない限りどけない」のように、その場には「主観的悪人があたかも普遍的悪人のように存在する事になります」
その場が「何て事の無い日常」なのか「特別に不快な一日」なのか、
そのどちらの世界が実存したのかという現実認識に対する主導権を握っているは相対的に「最初に邪魔だと思った人」の側にあるからです。
ここはコミュニケーション論的な話ですよ。
それは手間かもしれません、
しかし、それは民主主義における手続きと同様、面倒かもしれませんが社会の合意形成として”現代社会の場合より重要度が増している”のです。
実際テオレマさんの証言にあるように、挙げられた具体的ケースでは「夜、駅からの帰り道で地元住民が少ないことをいいことに」と表現されているとおり「彼らが通行人も少なく、横並びで歩いても迷惑にならないだろう」とその状況を判断した(通行人が多ければ通行の妨げにならないように配慮する事も想定できたかもしれない)可能性だってあります。
※雨の日の通りすがりにお互い無言で傘を傾け道を譲り合うのと同次元にはなりません→雨の日には自分も傘をさしているため傘をさしている人とすれ違うことは十分想定されているため(このケースでも道を譲り合い損ねる可能性が以下記述と同様の原理で増えています)。
又、心理的に仲間と話しながら歩いている状態の人間は(強調的人格特有の”当座話している他者への配慮”もあって→共同幻想の崩壊による構造的社会不安から”強調に対する依存化傾向”のように周辺への集中力が視野狭窄的に一時的後退(抑圧)を引き起こす可能性は現代社会の場合構造的に高くなる=帰属集団への内向化:いじめ関連項目)周辺への集中力が後退するため視界に入っていても”他者認識注意”のフラグが立たない場合も心理的にあるんです。
<つづく>
■実際「横柄な態度になっている者には○○しろ!のようにそれをいさめる」事が必要なケースもあるでしょう、
渋谷のセンター街でこれは地元商店街ボランティア活動で実際に行われています。
「怒れるオヤジ集団」として知られていますが、
酔っ払って、通行人の邪魔になっている若者等に
「あんたらどけよ」といきなり地元商店街のオヤジが(監視員として)怒鳴りつけるという運動ですが、一定の支持もあります。
それこそ「他に通行するサラリーマンやOL、学生さんから」、
一定の支持があるからこそその活動は続いていると言えますからね(商店街的に)、
『渋谷センター街パトロール隊(SCGP)』
この団体非常に批判も多いんですが(私も問題も多いと思ってます)、地方自治的に言えば「それもセンター街としての合意性」になるので、外野席からあれこれいうのも”何”なのでコメント控えますが、
確かに渋谷のセンター街ともなれば”非合法の勧誘”や”非合法の風俗呼び込み”等チンピラヤクザまがいのケースもそりゃあるでしょうし、
注意する振る舞いとして、防犯時の現行犯に対する警官のそれと近い態度も必要な場合もあるでしょう。
(SCGPの態度が警官以上に乱暴だという批判も強いですが)
※この点私はコメント欄にて「サラリーマンやOLさんを、場末のチンピラと勘違いしちゃいけませんよ。」と書き添えています。犯罪も頻発する渋谷センター街の状況と千代田区における「サラリーマンやOLさん」に対する認識が同じであるとは思えません。
>これは昨今頻発しているグループによる暴力事件、動物虐待死事件にも当てはまります
そもそも頻発しているとは言えません。
統計的に刑法犯は低下傾向であって、
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001011418&cycode=0
※殺人の認知件数は戦後最低を記録(H19警察庁犯罪統計)
※法務省が発行する犯罪白書によれば、凶悪犯罪は、ピーク時(1960年代)と2000年代を比較すれば件数は4分の1にまで低下している。
これは前述の「相対的社会不安心理」を前提に”視聴率が取れる”と、殊更マスメディアが誇張した報道をしているためで
(この部分も前レスで「リテラシーに欠ける旧マスメディアであり品性の疑わしい広告」として触れています)
動機が簡単に説明のつかない殺人事件等が報道としても増えているの事は確かに私も思いますが、これも共同幻想崩壊過程における「相対的社会不安心理」が、同様に局面として個人のメンタルな問題としても派生するためで(統計にあるようにメンタルな問題に起因して犯罪が増加するのではなく、メンタルな問題が社会問題として普遍化する傾向の中で”特異事例”として発生する犯罪にも「メンタルな問題を背景や動機とする」確率が相対として上昇するためです)、これは先進国の場合自明の社会現象になります。
↓
つまり「強圧的な道徳教育が有効」という論調には関連性(や有効性)は無いのです。
(内向的認知における強迫性をむしろ増強させてしまったり、反動性を助長してしまうからです)
※精神鑑定の必要となるような犯罪事例における刑法の適応に関しては私は一般論とは別個の私見を持っています(これは別論議ですから)。
重要なのは深層心理に抑圧され、表面上コミュニケーションが取れない状況下にある”自意識”に「いかなる方法でアプローチするか(本音をサルベージする)」という部分になりますから、
強迫心理として構造化されているロジックを突破する働きかけ(カウンセリング等)が有効になります。
たとえやスケールは違いますが(実際のカウンセリングの現場が非常に激しいものだとしても)、
街ですれ違うような、淡白な他者との関係性においては
「ちょ〜っと失礼しますね」(学校職場等の閉鎖社会においては”胸襟を開いた自己紹介”)
『失礼(目上の人や”未知の人”に自分の言動の無作法さをあらかじめわびて言う語)』
なる関わりに他ならないのです。
そして、そんなコミュニケーションネットワークなる(民主主義)社会は(ソーシャルネットワークもその傍流)、
ネット社会(圧倒的な個人主義的社会)においては既にキックオフしていると言えます。
すごいディスカッションになっていて驚きました。。。(汗)
こちらの物件ですがもう申込は入ってますでしょうか?
retour-an@iris.ocn.ne.jp
空室確認おこないまして、折り返しお返事いたします、
よろしくどうぞですっ
Webの中でここまで熱くディスカッション出来たのはある意味嬉しく思います
支離滅裂な文章はお気になさらないで下さい
96年始め〜慢性的な欝状態で
02年秋頃〜理路整然とした考えを述べれなくなってしましました(大ショック!!!)
今回は千代田区なので特化しましたが他の在住エリアへの想いも同様です(過去の例外が神楽坂、川口アパート、北品川ぐらいです)
ちなみに自分が住んでいた時の感覚で記述しております、つまり地元住民だった時代です
そして、k4さんごめんなさいね。
私ではなく仲間がすこし興味があったようなので…
URLは伝えましたので、
もし本格的に動こうということであれば
問い合わせが直接あるかと思います。。
ご案内ありがとうございました。
テオレマさんお気になさらないでください。
僕自身、街歩きが好きですし
歩いているその街・その場所の成り立ちについて
よく興味を持ちます。
今後ともよろしくお願いします。
ここのサイト『類は友を呼ぶ』そんな感じ・・・
差し支えない範囲で情報としては、「空いていると言えば空いている」ところです。
これは物件の媒介の関係で内見前提のガチの空室確認じゃないと(ここは物件管理形態が一般媒介なので管理会社もオーナに直接必要であったり”空室確認”の内容が状況によって違ってくるためで)正確なところお答えできない部分あるんです。
な感じで、連絡ある場合には対応いたしますね。
テオレマさんはいつも貴重な情報いただいてコメントには感謝しておりますので(先日のレスも”表現に誤解がある”な方向のもので、テオレマさん個人の心情については全く疑問を感じているものじゃありませんから)、今後ともよろしくどうぞですっ